帰国 2月18日
東京へむかう飛行機のロビーは、難民でいっぱい。
難民じゃないけども空気が難民。みんな帰りの便もままならなくて疲れ切ってる感じ。
旅が始まったときはコロナなんてなかったけど。
2か月前、ちいさな目的のために始めた旅は、
インドのデリーから10000km以上の距離をこえて、バスで鉄道で船で、関係をつくってく。
whatsappにはたくさん知らない電話番号があるけども、
誰が誰だっけ…
今はほとんどが数字の羅列でしかないけども。
旅は2週間くらい過ぎると、歩いてるだけで話しかけられるようになる。きっと空気が柔らかくなってるから。
それはヒマそうな商人だったり、おしゃべりな中央アジアの人だったり、詐欺師だったりするけど。
何処からきたの?からはじまって、何日くらいいるのに続いて、ひとりなの?
えっと…これまでの旅はね…
そして、いつも話しかけられてると微笑むようになる。
そしてまた話しかけられる。
おしゃべりにチャイは必要不可欠で、そのチャイは鍋で加熱したミルクに砂糖をゆっくりゆっくりと混ぜてく。
大理石が冷たくても寝てたのは宗教音楽が気持ちよかったからだし。
リキシャの痩せた脚が痛々しかったけど、ポケットには20ルピーしかなかったこととか。
デリーの何倍もすごかったラホールのバイクと喧騒とか、凍えて眠れなかったカラコルムハイウェイの夜だったり、フンザの人たちのブルーの瞳、氷点下10℃だとスマホのバッテリーは30秒でなくなる話とか、マリファナと遠くから聴こえてくる自分の笑い声、深夜のBBQで次々と親戚を紹介されてびっくりしたよ。
お金が足りなくて夜の高速道路を歩きながら帰ったとか、周りの人たちから食事がふるまわれるパキスタンの夜行列車、投石でガラスが粉々砕け散ってきれいだった、今では詐欺師になってしまった優しい学生、リゾート化されていたペルシャ湾の島とアメリカの空爆、路地裏にみつけたヤズドの宿。
夜の車たちのライトの中で探した国境行きのバス、みんなが屋根を歩く雪の積もった暖かい家、イランで赤いオムレツを食べてたら殴り合いが始まったとか、コーラより古いって飲まされたトルコのソーダ、初めての修道院での生活、深夜2時の聖歌と暗闇に浮かぶ銀のお盆、日本人修道士とコーヒー飲みながら話し続けたこと、40km歩いて丘のむこうにみえた修道院。
食べてるとアタマがおかしくなるクッキー、地元の酔っ払いたちと歌ったギリシャの民謡、ナポリのアパートで創ったパスタ、教えてもらった日本のバンドの名前は幾何学模様、ハトの群れにパン一斤を投げ込んだ、真っ白い青空に洗濯を干した北アフリカ、遠くに黒いUFOが浮いてたジェリド塩湖。
ポルトのカラフルな家と美味しかったヴィーガン料理、優しい友達が最後に伝えたのは生活の苦しさ、風力発電はゆっくりまわるスペインの大地、待ち合わせ場所で話しかけてきた船乗りのお爺ちゃん、コンクリートに囲まれた広い空間に朝までいる警備員。
今でもwhatsappに文字が表示されるのがうれしいこと。
ぜったいに、ぜったいに、忘れちゃいけない。
これは、そのために書かれた日記。